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高度な文明が栄えたイースター島の歴史【モアイ像】【謎】【ミステリー】【古代遺跡】

今回は、高度な文明が栄えたイースター島の歴史を紹介します。

日本から直線距離で約13518km離れた南太平洋に浮かぶ孤島「イースター島(正式名称はパスクア島)」

イースター島は南米大陸から約3700km、タヒチから約4000km、一番近い人の住む島までも約1900km離れたまさに絶海の孤島です。

そこには世界的に有名なモアイ像が、数多く存在します。

確認されているもので約900体のモアイ像があると言われています。

モアイ像の高さは平均4メートルから5メートル、重量は平均20トン。

最大級のもので高さ20メートル、重量90トンに達するものが存在しています。

モアイ像が造られた時期

モアイ像は7、8世紀ごろから造り始められ、17世紀まで造り続けられていたと言われています

約1000年もの間、イースター島ではモアイ像を造る高度な文明が繁栄していたと言われています。

モアイ像が造られた理由

墓碑として作られた説や、信仰の象徴だった説など、これまでにもいろいろな説が唱えられてきましたが、いずれもはっきりとした確証はないままでした。

有力な説は、モアイ像を祀ることによって土地が肥え、農作物を多く生産できると信教していた説が有力です。

イースター島は、作物を育てるにはかなり向いてない土地であり、土壌には作物の栽培に必要な栄養が枯渇しています。

ですが、モアイ像が造られた場所である「ラノ・ララク火山」の近辺の土壌は、リンやカルシウムなど、植物が成長する為に必要な栄養が高レベルで含まれていました。

ラノ・ララク火山

昔、その場所は農業地であり、バナナやタロイモ、サツマイモなどが栽培されていたことが分かっています。

昔の人々にとって、ラノ・ララク火山は神聖な場であり、島の生活を支える場になっていました。

ラノ・ララク火山で造られたモアイ像を色んな場所に祀ることによって土地が肥え、農作物を多く生産できると島の人たちは信教していました。
という説が有力です。

そして孤島ゆえに長らく外敵に侵入されることがなく、さらに加工しやすい柔らかな岩石が大量に存在していたので、モアイ像を多く造ることができました。

モアイ象はどうやって造られたのか

イースター島の東部にあるラノ・ラクク火山には石器(玄武岩や黒曜石)でも容易に加工できる凝灰岩が豊富にありました。

この加工が容易な凝灰岩をラノ・ラクク火山の斜面から削り出し、20人の石工が1年以上の長い時間をかけてモアイ像を作ったとされています。

ちなみに現存するモアイ像には、実は造りかけのものも多数存在しており、同時に道具も一緒に発見されております。

造りかけのモアイ像

道具の調査などから、どのように造ったのかはかなり解明されてきているようです。

モアイ像の運搬方法

重さ数十トンもある巨大なモアイ像の大多数は、削り出された石切り場から最大18キロの距離を移動しています。

車輪やクレーンが使われた痕跡もなく、大型動物の力も借りていないことが分かってます。

モアイ像の運搬法は、現在も明確には分かってませんが、様々な説があります。

有力な説は「ロープを使って、運搬していた説」が有力です。

この画像のようにロープをモアイ像に縛り付けて、人々がロープを左右交互に引っ張ると、モアイ像を動かせることが証明されました。

イースター島の文明が衰退した理由

元々、古代イースター島には巨大椰子が生い茂り、世界でも有数の熱帯性雨林があったとされています。

イメージ図

しかし人口増加に伴い、カヌーの製造、農地の開墾、さらにはより多くのモアイ像の製造が行われ、森林はどんどん伐採されていきます。

森林伐採が進むことにより土地はやせ衰え、大規模な飢饉が起こりました。

そして食料を求めた部族間の争いが勃発し、紛争により沢山の命が奪われ人口減少が進んでしまいました。

その後、西洋人の侵略などもあり、島民は奴隷として連れて行かれ、
さらに西洋人が持ち込んだ伝染病などにより、島民の数はさらに減ってしまいました。

最終的には111人まで住民が減少し、文明は壊滅的に衰退してしまいました。

未だ誰にも解読できない文字が見つかっている

ロンゴ・ロンゴ文字

イースター島の遺跡には、ロンゴ・ロンゴ文字が発見されています。

現在でも、解読できていません。

ヨーロッパ人が初めてイースター島に上陸したのは1722年のこと。当時はポリネシア系の住民のみで、モアイ像については断片的な伝承しか持たず、島の遺跡に残るロンゴ・ロンゴ文字を読める者がいませんでした。

これでこの記事は以上になります。

記事をご覧いただきありがとうございました。

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