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高度な文明が栄えたマチュピチュの歴史【古代遺跡】【謎】【ミステリー】

今回は、高度な文明が栄えたマチュピチュの歴史について紹介します。

日本から約15929kmも離れた場所に存在するマチュピチュは古代インカ帝国の遺跡で、15世紀半ばに建築されました。

マチュピチュの場所は、南米ペルーのアンデス山脈の標高約2450mに存在します。

遺跡の面積は約13平方キロメートルで、人口は最大で500人から1000人程度と言われています。

マチュピチュには神殿、大広場、段々畑、墓地、水路や通路が巡らせた住居跡などがそのままの状態で残されています。

総面積の約半分の斜面には段々畑が広がっています。

街並みは、数キロにもわたって150以上もの建物が並んでいます。

また観光地としても人気がとても高いです。

マチュピチュが建築された理由

何故このような高地の断崖絶壁に、要塞都市(マチュピチュ)が建築されたのか、その理由は明確に分かっていませんが、有力な説は「インカ信仰の対象である太陽を研究する宗教施設だった」という説です

その理由の一つとして、マチュピチュは南北を高い山に挟まれた尾根の上に存在しており、東西の方角がひらけていて、太陽の光は遮られることはなく、太陽の観測や研究するのに最適な立地だからです。

マチュピチュは文字を持たない文明だった

マチュピチュが栄えた時代は、アンデス文明の時です。

アンデス文明は文字を持ちません。

アンデス文明とは、南米のアンデス地域に人類が到着した紀元前13000年から、16世紀にスペイン人がインカ帝国を征服するまでの間をアンデス文明と言います。

アンデス文明は約15000年間も続きました。

その為、マチュピチュでは文字が書かれた遺跡や本が残されていないので、マチュピチュは多くの謎が明確に解明されていません。

数トンもの石をどうやって積み上げたのか

遺跡の建物は数トンもある石を多く積み上げて、建築されています。

マチュピチュは地震が多い国ですが、遺跡の建物は地震に強い構造で建築されており、さらに数トンもある石を隙間なく積み上げています。

インカの人たちは製鉄技術は持ってなかったのですが、石工技術は優れていました。

岩山から切り出した石を多角形に加工したり、数トンもある石を隙間なく積み上げたり、その技術は今もなお明確に解明されていません。

水工技術が優れていた

インカの人達は水工技術が優れており、3つの方法で水源を上手く活用していました。

1つ目はマチュピチュは降水量が多い地域なんですが、インカの人達はこの豊富な雨水を地下に貯め、生活用水や農業用水として利用していました。

都市の地下に広範囲にわたって、石が敷き詰められており、貯水槽のような役割を果たしていました。

そして地下に貯められた雨水が、マチュピチュの中心部を走る水路を通ってゆっくりと郊外の農地へ排水される仕組みになってました。

2つ目はマチュピチュ遺跡の水源はマチュピチュ山の標高2700m付近にあり、そこから水を引き、遺跡の隅々まで水が行き渡るように水路が張り巡らされています。これらの水路は石材を組み合わせて構築されています。

3つ目はマチュピチュの近場には今でも水が湧き出る16の水汲み場が発見されており、それらも利用してました。

土木建築技術が優れていた

この段々畑はアンデネスと呼ばれており、人工的に土壌改良(土木建築技術)が行われています。

上から土、川砂、軽石、石という4層構造になっていて、雨水を適切に吸排水する機能が備わっています。

この土壌のおかげで標高が高いマチュピチュでも農作物を育てることができました。

段々畑の高さは3mぐらいで、全部で40もあります。それらは3000段もの階段で繋がっています。

石積みを維持する上でもっとも重要なポイントが排水であり、雨の多いこの地で500年もの間、石積みが崩れなかったのは、当時の石積み技術が高く、きちんと排水ができていた証でもあります。

石工技術が優れていた

建築物は、石積みによって建築されています。

建築物や段々畑に用いられた花崗岩は,マチュピチュのなかでも高台に当たる南西の丘で切り出されました。

低地から高台へ大きな岩を運ぶのは困難ですが、高台から低地へ岩を運ぶのは合理的です。

どうやって岩を加工していたのかというと、岩の割れ目や穴に木の棒を差し込み、そこに水を徐々に含ませていくことで、木が少しずつ膨張していきます。その性質を利用して岩を削り出し、使い勝手のよい大きさや形に加工されました。

石組みをより強固にするために、大きな岩と小さい石を組み合わせて建築された箇所もあります。

いつ滅亡したのか

滅亡ではないですが、廃墟と化した理由は2つあります。

1つ目が1530年頃に疫病が流行ったことです。2つ目がスペイン人がインカ帝国を征服したからです。

それらが原因で廃墟と化したと考えられています。

インカの人々はこの秘密都市で80年〜100年ほど生活した後、高度な文明が栄えたマチュピチュを残してさらに奥地へと移り住んだと言われています。

その後、数百年間に渡り人の目に触れることはなく、1911年7月24日にアメリカの探検家がマチュピチュを発見しました。

これでこの記事は以上になります。

記事をご覧いただき、ありがとうございました。

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